豊臣秀頼の人物像!身長・父親・子供・最後のエピソードとは?

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『豊臣秀頼』これほどよく名前を知られているのに、その人物像が分かっていない歴史上の人物は少ないかもしれません。

(豊臣秀頼)

「名君だった」「マザコンだった」「頑固だった」「優柔不断だった」「カリスマ性を持っていた」「ただのお坊ちゃんだった」など、両極端なことを言われています。

出生からして、秀吉の実の子ではなかったという話さえあります。

豊臣秀頼とは一体どんな人物だったのか?

その謎に包まれた人物像を言い伝えや経歴などから調べてみました。

豊臣秀頼の略歴

1593年8月29日(誕生:文禄2年8月3日)

父・豊臣秀吉、母・淀殿(よどどの)との間に生まれる。

(豊臣秀吉)

1596年(3歳)

元服(げんぷく:成人の儀式)して藤吉郎秀吉と名前を改める。

1598年(6歳)

父・豊臣秀吉が死去して家督を継ぎ、大阪城に入いる。

1600年(8歳)

関ヶ原の戦いが起こり、徳川家康を中心に構成された東軍が勝利し、 その後、徳川幕府が成立する。

(徳川家康)

1603年(10歳)

徳川家康が征夷大将軍に就任し、徳川幕府を作る。
徳川家康の孫・千姫(せんひめ:)と結婚。

(千姫)

1605年(12歳)

右大臣(うだいじん:朝廷の最高機関の1つ)に昇進する。

1607年(14歳)

右大臣を辞す。

1614年(21歳)

秀頼を大将とする大阪方と、徳川家康を大将とする徳川方との間で、大阪城攻防戦・大阪冬の陣が行われる。
大阪冬の陣は大阪方が優勢の中、和議が成立し戦いは一旦終了。

1615年(22歳)

2度目の大阪城攻防戦・大阪夏の陣が行われ、徳川方が勝利する。

1615年6月4日(死去:慶長20年5月8日)

戦いに敗れた秀頼は、母・淀殿と共に大阪城内で自害。
享年23歳(満21歳)

豊臣秀頼の身長は?巨漢だったって本当!?

江戸時代中期の『明良洪範(めいりょうこうはん)』という書物に書かれた、身長6尺5寸(197cm)・体重43貫(161kg)という説が、一番多く語られています。

また、別の古文書には、身長180 cm・ 体重80kg のがっしりした体躯と書かれていたようです。

他にも、5尺3寸 (161cm)くらいだったのではないかという話もあります。

このように秀頼の体型については、 色々な説があるのですが、男性の身長の平均が155 cm ぐらいだったという時代。

やはりあの時代では、かなりの大男だったのは確かだったようです。

そして、 この秀頼の体型が元で出てきたであろうと思われる説が、次の「秀頼は秀吉の実の子ではない」という説ですね。

豊臣秀頼の本当の父親は?秀吉の実の子じゃないって本当!?

秀頼は秀吉の子ではなかったという説があります。

先ほど出てきた『明良洪範』にも
「秀吉公ノ実子ニアラズ 大野修理ト密通シ捨君ト秀頼君ヲ生セ給フト」
(秀吉の実子ではない、大野修理と浮気をして捨(すて)と秀頼が産まれた)
と書かれています。

ここでは秀頼は、淀君と大野修理の間に生まれた子供だと言っています。

※捨君とは、秀吉と淀君の間に生まれ、3歳で病死した秀頼の兄。

※大野修理(おおのはるなが)とは、豊臣家の家臣で淀殿・秀頼の側近。

また大野修理ではなくて、石田三成との間にできた子供だと言う話もあります。

(石田三成)

どちらにしても、なぜこのような噂話が出てくるのか、原因は二つ考えられています。

一つ目の疑問

一つは、秀吉には正室・北政所をはじめ、多くの側室がいたにも関わらず、子供は淀君との間にしか生まれなかったこと。

他の女性には誰一人子供が生まれなかったのに淀君だけに二人も子供が生まれたということが疑問視されたわけですね。

二つ目の疑問

もう一つは、秀吉の身長が低かったからです。

秀吉の身長は一説には150 cm 以下だったと言われています。

150 cm 以下の父親に、190 cm 以上の子が生まれるのが疑問されたのです。

この真偽はわかりませんが、淀君を擁護する話しを二つほど述べておきます。

秀吉には他にも子供が出来ていた

まず、生まれた子供の件ですが、 秀吉が長浜城主時代に側室・南殿とのとの間に男の子が生まれたという話があります。

名前は石松丸(いしまつまる)と言い6歳で亡くなったそうです。

石松丸の存在を疑問視する声もありますが、 もし実在していたとすれば秀吉には淀殿どの間以外にも子供がいたということです。

秀頼の身長は浅井家の血筋

次に身長の件ですが、 淀君の父親・ 浅井長政は身長が180 cmあったと言われています。

(浅井長政)

※浅井長政(あざいながまさ)とは、淀君の叔父にあたる織田信長との戦いに敗れて自害した戦国武将。

じつは淀殿自身も身長168cm・体重65kgある、大柄な女性だったと伝えられています。

そこから考えられるのは秀頼は浅井家の遺伝を受け継いでいたということでしょう。

豊臣秀頼の最後は?生存説と謎の遺骨!

秀頼は1615年の大阪夏の陣で徳川幕府軍に敗れ、母親・淀君や実の父親との噂もある大野治長らと共に大阪城で自害したと言われています。

しかし、大阪城落城後も生き延びてたという生存説も残っています。

花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ
このような童謡が、当時の京で流行ったそうです。

大阪城が落城した後、真田幸村が秀頼を連れて鹿児島に逃げたという歌です。

この歌を信じると、 秀頼だけでなく真田幸村までが生きていたということになりますね 。

(真田幸村)

日本には 戦いに敗れた英雄を簡単には死なせずに、生き延びさせるという伝説はいくつもあります。
有名な伝説では、源義経は平泉で死なずに大陸に逃れてジンギスカンになったという話です。

だから、ジンギスカンの孫・フビライハンが日本を攻めたのは、お爺ちゃんの敵討ちだと言うことになります。

このような生存説が噂される原因の一つに遺体が見つかっていないということがあります。

義経や本能寺で自刃した織田信長もそうですが、 大阪城で自刃した秀頼も遺体が見つかっていません。

遺体が見つかっていない英雄たちには生存説がつきまといます。

ところが、 1980年に大阪城でいくつかの頭蓋骨が発掘されました。

その中の一つが、介錯された時についたと思われる傷がある、20歳前後の男性のものと分かりました。

そしてこれが秀頼の首ではないかと噂されるようになりました。

しかし未だにそれが秀吉の首であると言う確かな証拠はありません。

現在この頭蓋骨は京都の清涼寺に埋葬され、首塚が建てられているそうです。

(秀頼 首塚)

豊臣秀頼の子供は?秀頼の子孫たちの運命は!?

秀頼には正室・千姫との間に子供はいませんでした。

ですが、側室との間に国松(くにまつ)、天秀尼(てんしゅうに)の一男一女がいました。
※天秀尼については、幼名(ようみょう:幼い時の名前)はわかっていません。

国松(くにまつ):秀頼の長男

国松は、1608年に秀頼の側室の伊茶との間に生まれましたが、生まれてすぐに預けられその後、他家の表示になりました。

これは、子供のない正室・千姫にはばかった為と伝えられています。

秀頼が、わが子国松に初めて会ったのは、1614年・大阪夏の陣が起きた時です。

国松が秀頼の隠し子だと徳川方に知られる前に、大阪城内に移したからです。

大阪夏の陣の1615年5月8日に、秀頼は国松と杯を酌み交わし永遠の別れをして、大阪城落ち延びさせました。

しかし、 徳川方の捜索で国松は見つかり、秀頼と別れた15日後の5月23日、市中引き回しの上、京の六条河原で斬首されました。

享年8歳

天秀尼(てんしゅうに):秀頼の長女

(天秀尼)

一方、秀頼の娘で国松の腹違いの妹・天秀尼は、 国松とともに捕らえられましたたが、千姫の養女として寺に入りることを条件に助命されます。

天秀尼は1609年生まれで国松とは一つ違い、助命され7歳で縁切寺として知られる鎌倉の東慶寺に入りました。

※縁切寺(えんきりでら)とは、江戸時代は女性側から離婚申し立てが許されなかったため、妻が夫と離婚するために駆け込んだ幕府公認の寺で、駆け込み寺(かけこみでら)とも呼ばれています。

大阪夏の陣の翌年1616年に
「秀頼様の幼い娘がこの僧院で尼となってわずかにその生命を保っている」
とイギリス商館長リチャード・コックスが、天秀尼のことを書き残しています。

天秀尼は1634年(25歳)に東慶寺の第20世住職となり、離婚を希望する女性たちのために今で言う福祉活動をしていたようです。

645年2月7日(37歳)天秀尼が亡くなった時 、養母の立場である千姫が 香典を送ってきます。

異なる道を歩んだ二人ですが、生前は深い交流をしていたそうです。

天秀尼が亡くなることで豊臣家の血筋はここで絶えました

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豊臣秀頼の妻・千姫!千姫のその後の生涯は?

(千姫)

千姫は1597年4月11日、徳川秀忠(ひでただ)と正室・お江(ごう)の方の長女として生まれました。

千姫姿絵(弘経寺蔵)

※徳川秀忠は、家康の三男で後の徳川2代将軍
※お江の方は、織田信長の妹お市の方の次女で、淀殿の妹

ですから千姫は淀殿の姪で、秀頼とはいとこ同士という関係になります。

大阪城落城までの千姫

1603年(6歳)秀頼と結婚し大阪城に入りました。

この結婚は、秀吉が生前に決めたもので、まだ豊臣家の意向を無視できなかった当時の家康が、秀吉の言いつけを守ったということでしょう。

1615年(18歳)の大阪夏の陣で千姫は、大阪城が落城する前に家康の命により救出されます。

これは、 夫婦仲は良かったとされる秀頼と淀殿が、千姫を死への道連れにすることを不憫と思ったからと言われています。

また、千姫を家康へ返すことで、秀頼の助命を願ったとも言われています。

実際に千姫は家康に、秀頼の助命を願ったようですが、その願いは聞き入られませんでした。

この大阪城落城までの話はよく知られていますが、 その後の千姫についてはあまり知られていないように思います。

大阪城落城後の千姫

(本多忠刻)

徳川家に戻った千姫は1616年(19歳)に桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻(ほんだただとき)と結婚します。

結婚の際、津和野藩主・坂崎直盛(さかざき おもり)が、千姫を奪う計画を立てたが死亡し、坂崎家が取り潰しになるという『千姫事件』というのが起こっています。

千姫事件についてはいろいろな説があり、真相がよく分かっておらず、語りだすと長くなりますので今回はやめておきます。
(気になる方は『千姫事件』で調べてみてください)

千姫は忠刻との間に一男一女をもうけますが、 長男が3歳で死亡します。

その後、1626年(29歳)に夫、姑、母などが亡くなる不幸が続き、娘・勝姫と共に本多家を出ることとなりました 。

徳川家に戻ってからは、天樹院と名乗って出家します。

1628年(31歳)に娘・勝姫が嫁いだ後は 一人で暮らしていました。

ですが、1644年(47歳)に 3代将軍・家光の側室・夏と暮らすようになり、その後生まれた家光の三男・綱重の養母となってから大奥で権限を持つようになったと言われています。

1666年2月6日、江戸で死去、享年70。

千姫の人柄

千姫は温和な性格と伝えられています

ですが、秀頼の娘・天秀尼が処刑されそうになった際に体を張って助命嘆願を行うような一面も持っています。

一人目の夫・秀頼との夫婦仲や、二人目の夫・忠刻との夫婦仲も良かったと伝えられ。

祖父・ 家康や、父・秀忠にも可愛がられ、弟の三大将軍家光にも信頼されて、誰からも好かれる性格だったようです。

また、千姫の祖母で信長の妹・お市の方は戦国一の美女と謳われましたが、千姫はその美貌も受け継いだいたようで、美しい姫君だったと伝えられています。

豊臣秀頼の人物像!名君・マザコン?秀頼のエピソード

(淀君)

さて、話を本題に戻しましょう。

秀頼は幼い頃から英才教育を受けていて、文武両道の若者だったという説があります。

その一方で、 公家のような教育を受け、淀殿に甘やかされて育ったマザコンだったという話もあります。

正反対の話ですが、どちらが正しいのでしょう。

秀頼の人物像についてはよく分かっていないのですが、そのエピソードから探っていきたいと思います。

淀殿が反対で実現しなかった秀頼と家康の会見

淀殿が反対した秀頼と家康の会見は

秀頼か右大臣に昇進した際、家康は秀頼との会見を希望しています。

しかし、淀殿の反対で二人の会見は実現せず、この時、家康の名代として家康の六男・松平忠輝が秀頼と会見しています。

ここでは豊臣家の実権は淀君が握っていて、秀頼は母親の言うことに従っていたということでしょう。

この時点で秀頼はまだ14歳ですから、まだ母親の言うこと従っていたとしても仕方がないとも思いますが、ちょっとひ弱な若者のような感じもしますね。

成人した秀吉と家康の初めての会見

成人した秀吉が家康に初めて会ったのは、1611年(18歳)です。

この会見で、 家康は玄関先まで出て秀頼を出迎え、先に会見の間に上げようと進めたところ、秀頼が固辞して家康を先に上げたというエピソードが残っています。

これは秀頼が家康のススメに応じて先に会見の間に上がったとしたら、秀頼は自分が家康のと対等の立場なのだと思っていると見られます。

秀頼が固辞して家康を先に挙げたということは、自分は家康より下の立場だと分かっているということ家康に伝えたということです。

二人の関係は 秀頼にとってみれば家康は自分の父親の下の立場の人間であり天下を盗み撮った男です。

家康にしてみれば秀頼は、 今田豊臣家に恩を感じている多くの武将の頂点に立つ人物であり、彼らの心情的な主君とも言えます。

二人は非常に微妙な関係にあったということです。

この会見で成人した秀頼を初めて見た家康は、秀頼をカリスマ性を感じたと言われています。

そのため家康は後の徳川家のために、豊臣家を潰すことを決意したと伝えられています。

家康がそう決意したかどうかはよく分かりませんが、 このエピソードは秀頼が立派な若者だったと言っていますね。

淀君が反対した会見から4年、秀頼は立派な若者に育ったのでしょうか?

大阪冬の陣での秀頼

1614年(21歳)二人が会見してから3年後、 豊臣家と徳川幕府がついに衝突します。

この時、豊臣方に見方をしたのが、真田幸村などの浪人たちです。

真田幸村などは大阪城を出て京都に進撃する案を出しますが、 淀殿や秀頼の側近・大野治長は、大阪城で籠城する作戦を主張します。

結局大阪城で籠城すること決まるのですが、 このこともあり秀頼の側近たちと大阪城に集まった浪人価値の対立があったと言われています。

この戦いは浪人たちの奮戦もあり、 大阪方が優勢で徳川方から和議の申し出がありました。

この和議の申し出に対し、浪人たちは反対し秀頼も初めは反対していたと言われます。

しかし淀殿の主張などによっては成立します。

和議を受け入れたエピソードとして、昼夜行われた徳川方の砲撃と、その一弾が淀殿の近くに落ちて淀殿の侍女の体を粉砕したため、震え上がった淀殿が和議に賛成したという話があります。

ここでのエピソードの秀頼は、母親に頭の上がらず、一貫した自分の主張もない凡庸な若者だったように見えます。

大阪夏の陣での秀頼

(大阪夏の陣)

1615年(22歳)家康は再度戦争の再開を宣言し、大阪夏の陣が始まります。

秀頼たちが籠城する大阪城は、大阪冬の陣は和議の条件として、城を守っていた堀が埋められ、 防御力のない城になっていました。

大阪型は城を出て奮戦しますが、 各所で戦いに敗れ敗北が濃厚となってきます。

この時、真田幸村が豊臣方の士気を高めるため、秀頼に戦場に出てくることを進言します。

しかし秀頼は大阪城に残ったまま、 ついに一度も戦場に出ることはなく豊臣方は破れてしまいます。

秀頼が戦場に出なかったのは、
淀君が秀頼が戦場になることを許さなかった
戦場では「味方が次々に裏切っているから出て行っては危ない」と言う徳川側が流した情報に惑わされ、出て行く機会を失った
などいくつかの話があります。

いずれにしても、大阪方の総大将である秀頼は最後まで一度も戦場に出ることなく、最後は母親や側近、侍女たたちと自害しました。

まとめ

豊臣秀頼という人物は、若くして死亡したということもありますが、 ほとんど大阪から出ることもなく、残された文献も少ないのです。

秀頼は大阪から他の土地へ移れと家康から言われたことがあり、この時淀殿が反対したため実現しなかったと伝えられていますが、もし家康の命に従っていたならば歴史は変わっていたかもしれません。

これほど有名な人物なのに、これほど人物像がわかってないのは、これまでの秀吉研究が低調だったことにも原因があるようです。

しかし最近、秀頼が秀吉の実子だったかどうかで論争が起っていて、今後は秀頼の実証的な研究が始まると期待されています。

研究が進めば、実際の秀頼がどんな人物だったのかがわかる日は、そう遠くないかもしれませんね。

人それぞれ秀頼に対するイメージは違うようですが、あなたは豊臣秀頼という人物ついてどういうイメージを持っているのでしょうか?

意見・要望・質問・感想などがありましたら、コメントして頂ければありがたいです。

では、また次回!

※年号のついていない年月日については、西暦に直した年月日を記述しています。
※()内の年齢は満年齢ではなく、その年の年齢です。

参考文献:・Wikipedia
画像引用:・Wikipedia

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