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1973年のシーズオフに、太平洋クラブライオンズ(現:西武ライオンズ)が、現役の超大物メジャーリーガーと契約したとスポーツ紙が驚きを伝えました。
その選手は、<span style=”background-color: #ffff00;”><strong>メジャー通算382本塁打の記録をもつ、フランク・ハワード</strong></span>(当時37歳)です。
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<h2><span style=”background-color: #ffcc99;”>◆メジャーでの成績</span></h2>
<strong>・1960年:新人王</strong>
<strong>・1968年:44本塁打で、初の本塁打王</strong>
<strong>・1970年:44本塁打・132打点で、本塁打王・打点王の二冠</strong>
<strong>・メジャー通算:1774安打・382本塁打・1119打点</strong>
<strong>・メジャー通算アベレージは2割7分3厘</strong>
<h2><span style=”background-color: #ffcc99;”>◆史上最強の助っ人</span></h2>
<img class=”alignnone size-medium wp-image-405″ src=”https://xn--vekz09jl4rbzr77av40b.com/wp-content/uploads/2017/09/41c40f02ee3fb9abbc023275c9244e94-271×300.jpg” alt=”” width=”271″ height=”300″ />
ハワードの通算成績は、それまで来た助っ人外国人の中でも群を抜いていました。
まさに「<span style=”background-color: #ff0000;”><strong>史上最強の助っ人</strong></span>」と呼ばれるにふさわしい実績です。
当地のスポーツ紙は開幕が近付くにしたがって、ハワードフィーバーで盛り上がっていました。
<h2><span style=”background-color: #ffcc99;”>◆暴かれた真実</span></h2>
そんなハワードフィーバーに、冷水をさすようなニュースが開幕直前に報じられました。
ハワードが、ひざ痛で出られる状況にないという情報を聞きつけたスポーツ紙が「<strong><span style=”background-color: #ff0000;”>ハワード、開幕欠場</span></strong>」と一面に報じたのです。
その記事に、あわてたのは太平洋クラブのフロント陣でした。
太平洋クラブのフロント陣がハワードに目をつけたのは、その実績で集客力をアップさせるのが目的です。
開幕戦をハワードが欠場するようであれば、集客力は一気に落ちてしまいます。
たとえ、ひざの状態がどうであれ、ハワードが開幕戦を欠場するという選択肢はとれませんでした。
<h2><span style=”background-color: #ffcc99;”>◆運命の開幕戦</span></h2>
<img class=”alignnone size-medium wp-image-404″ src=”https://xn--vekz09jl4rbzr77av40b.com/wp-content/uploads/2017/09/be3a5ae54aaa2ff56203e8cc199dc593-300×198.jpg” alt=”” width=”300″ height=”198″ />
1974年4月6日当時の平和台球場で、太平洋クラブ対日本ハムの開幕戦が行われました。
太平洋クラブの4番は、当然ハワードです。
ムリを承知で強行出場したハワードは、<span style=”background-color: #ffff00;”><strong>試合中にひざ痛が悪化し途中交代</strong></span>してしまいました。
<h2><span style=”background-color: #ffcc99;”>◆退団後の金銭トラブル</span></h2>
その後ハワードは、日本で膝の治療していましたが、結局5月に球団と契約を解除してアメリカに帰りました。
退団後には、まだ支払われていなかった残りの年俸について、球団との揉めていたようです。
最後は、アメリカでの裁判を恐れた球団が、全額支払ったと伝えられています。
<h2><span style=”background-color: #ffcc99;”>◆日本での実績</span></h2>
ハワード選手の日本での実績は、結局開幕の1試合だけになってしまいました。
通算成績は
・<span style=”background-color: #ffff00;”><strong>1試合・3打席2打数1四球・打率ゼロ・打点ゼロ・本塁打ゼロ</strong></span>
という成績です。
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<h2><span style=”background-color: #ffcc99;”>◆フランク・ハワードの人物像</span></h2>
<img class=”alignnone size-medium wp-image-403″ src=”https://xn--vekz09jl4rbzr77av40b.com/wp-content/uploads/2017/09/c1710d7935035a3b498caa790b917177-294×300.jpg” alt=”” width=”294″ height=”300″ />
ハワードは身長2mを超える巨漢でしたが、性格は穏やかで人格者でもあったようで、みんなから「<strong><span style=”background-color: #ffff00;”>足長おじさん</span></strong>」と呼ばれて慕われていたようです。
彼の「その後」でも書いていますが、長いあいだ監督やコーチを歴任できているのも、彼の人柄によるものかも知れませんね。
<h2><span style=”background-color: #ffcc99;”>◆フランク・ハワードのその後</span></h2>
<strong>・1981年:サンディエゴ・パドレスの監督</strong>
<strong>・1983年:ニューヨーク・メッツの監督に就任</strong>
監督での通算成績は93勝113敗と、いずれも短期間でしたが、メジャーリーグの監督を務めました。
また監督と前後して、1977年~1999年まで、複数のチームでコーチも務めています。
その後もヤンキースで育成インストラクターの仕事をしていたようです。
生年月日は1936年8月8日(現在:81歳)
<h2><span style=”background-color: #ffcc99;”>◆まとめ</span></h2>
最後に一つ気になるのは、彼の膝がいつから悪かったかということです。
開幕前にすでに悪かったのでしょうから、それは契約時から分かっていたのではないかと思えます。
ただその状況が、試合ができないほどの状況ではなかったのかもしれません。
日本に来て、オープン戦などをやっている間に膝が悪化したということは十分考えられます。
それに、たぶん開幕戦には膝の痛みをおして出場したのでしょうから、責任感も持っていたのでしょうから。
どちらにせよ、<span style=”background-color: #ffff00;”>元ホームラン王の現役メジャーリーガーが、どれくらい凄いのかを当時のファンに見せてほしかった</span>と思います。
意見・要望・質問・感想などがありましたら、コメントして頂ければありがたいです。
では、また次回!
参考文献:・Wikipedia・太平洋クラブライオンズ
画像引用:・太平洋クラブライオンズ
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